母親が脳出血で倒れてから(初日)

その他/コラム

2019年12月、母が脳出血で倒れました。

時間が経るごとに心も少しずつ落ち着いてきて、日常を取り戻しつつあります。そして最近では、自分が人生で一番しんどかったこの1ヶ月間の気持ちを忘れたくないという気持ちが強くなりました。

なので備忘録を兼ねて、母の病気について書いていこうと思います。

素直なことを書いてる分、気を悪くする方がいたら申し訳ないです・・・

私はこの1ヶ月、自分が直面している病気や介護のことについて何も知らないことがとても不安でした。毎日ネットサーフィンをしてはいろんな情報を目の当たりにし、それに一喜一憂していました。

ただ、どうやら世の中には似たような状況の人がたくさんいるらしい。私はその人たちの存在に希望をもらいました。

もしかしたら、同じように親の病気や介護に悩む人がいるかもしれない。

大切な人が脳出血で倒れて、少しでも情報が欲しい人がいるかもしれない。

もしこのブログに辿り着いた方が、こういう事は自分だけじゃ無いんだと少しでも安心してくれたらとてもとても嬉しいです。

現状

母親が脳幹出血で倒れました。意識はありません。戻る見込みもほとんどないとお医者さんからは言われました。

でも、自分で呼吸し、自分で心臓を動かしています。

倒れた当時はあと1〜2日持つかどうか・・・と言われ、1ヶ月経ちました。

今は安定し、ここ数日でどうにかなる状況ではありません。

少しでも長く頑張って欲しいと願う毎日です。

母が倒れた日

その日はたまたま東京出張でした。

お客様訪問が終わり駅へ向かう途中、着信が2件あったことに気がつきました。

父と叔母からでした。

「え、叔母がなんで電話してくるの?今まで1度もかけてきたこと無いよね?」と嫌な予感がしました。真っ先に疑ったのは、祖母か祖父の安否でした。

そしてLINEを見てみると父からメッセージが。

「おかあさんが倒れました。大至急連絡ください。」

え!!!?お母さん!!!!?

全く予想していない斜め上から岩を落とされた気分でした。

倒れたって、どうして?でも、そんなに悪いわけじゃないでしょ、命は助かってるよね?

そんな淡い期待を持っていました。

父へ折り返し電話をかけている時は、お願いだから今すぐ実家(札幌)に帰ってこいって言わないで欲しい。そんなに悪い状態だなんて嫌だ・・・!と思っていたことを覚えています。

電話が繋がり、父は暗い声で私にゆっくり言いました。

「落ち着いて聞けよ。お母さんが倒れた。持ってあと1日〜2日だって。今、どこにいる?今すぐ帰ってこい。」

私が一番考えたくなかった最悪の状況でした。さっきまでの淡い期待は一瞬にして打ち砕かれ、嘘だ嫌だと訴えながら、駅で泣き崩れました。電話の向こうの父も泣いていました。

走馬灯のように、今までのいろんな場面での母親の顔が浮かびました。

この前まで元気に電話してたじゃない。春には大阪に遊びに来るって言っていたのに。どうして・・・

どうしてが止まりませんでした。

とにかく羽田に向かわなければと思い、混乱する頭で電車を乗り継ぎました。

到着時点で一番早い飛行機は30分後に出発するJAL便だったので、走ってカウンターに向かい、無事チケットを購入。(ちなみにJAL当日券購入の場合、26歳未満はスカイメイト利用でお得に乗れます!)

とにかく当日中に札幌に着けそうで安心しました。

しかも、泣いてぐちゃぐちゃな私を乗せた機体は、JALが最近導入したA350でした。こんな時に最新機材に乗れるんだから、きっと運は味方しているはず。お母さんを助けてくれるはずと思いながら乗りました。

このA350はとても快適で、国内線にも関わらず全席モニター付きで、映画やドラマが観られます。

私は落ち着こうと思い大好きな名探偵コナンを観ましたが、その回は誰も人が死なず、みんな平和そうで良いな・・・米花町でも今日は人が死なないのに、どうして母は死ぬんだろう、と捻くれた気持ちで眺めてました。

意識はなくても生きているんだ

病院に着くと、たくさんの管に繋がれたお母さんがいました。

倒れた原因は脳幹出血でした。

脳幹部へメスを入れることはリスクが大きいため、一般的に手術はされないとのことです。何の措置もできず、ただ見守るしかないのだなあと、もどかしく感じました。

母に呼びかけてみましたが、何度呼んでも目覚めません。

顔がむくみ、力が無く、こんな母親の姿は今まで一度も見たことがありませんでした。母は、体は大きいのに、その命が蝋燭の火のように本当に小さく思えました。

本当に死んでしまうのかもしれないと思い、ただただ涙が込み上げました。

隣に座り、手を握って見つめました。

母の手が、温かいんです。

もう嘘でしょってくらい、握り返してくれないのがおかしいくらい、温かくて、生きてる手でした。

意識がなくて、何も話せなくて、聞こえているかどうかもわからない母のことを、もう死んだも同然と思う人がいるかもしれません。

でも、温かくて触れられる存在がそこにあって、息をして心臓を動かしている姿を見ると、どうしても生きているんだと実感せざるを得ませんでした。

夜が明けて

発症後1~2日が山場だと言われ、病院に寝泊まりする日々が数日続きました。

1時間後には容体が急変しているかもしれない。まさに一寸先は闇でした。

ただ、母はとても頑張ってくれました。

鼓動が弱くなる気配もなく、呼吸も乱れず、3日経っても病院に着いた時と何も変わらず横たわっていました。

本当に今日明日でこの呼吸が止まるのかな?と信じられない気持ちと、あまり期待するのも辛いから諦めようという気持ちがせめぎあいました。

5日ほど経った頃、担当の先生から、状態が安定してきたので、ここ1日~2日でどうにかなる状況は脱したと説明がありました。

脳の腫れがおさまり、山場を超えたようです。

クリスマスを迎えられそうだ、年を越せそうだと希望が湧いてきました。

ついさっきまで、もしかしたら来週は葬儀かな・・・とか考えていたけれど、そんなのまだまだ先なんだ、と嬉しく思いました。

「今日から栄養を取り入れましょう」

お医者さんから流動食を取り入れることを説明され、生きるためにできることがあるのだと心底嬉しく思いました。

父と私と、意識のない母と、3人家族の新しい人生がスタートした日でした。

どうして100年生きられると思うのか

人生100年時代とよく言います。

確かに日本人の平均寿命はどんどん延びて、100歳を迎える人が珍しくなくなってきました。

私も漠然と80歳くらいまでは生きるのかな?と思っていましたが、今回の件で考えが一変しました。

生物はみな、いつ死ぬかなんてわからない。今日かもしれないし、明日かもしれない。

自分も、周りの人も、みんな元気にお爺ちゃんお婆ちゃんになれるかどうかなんて誰も知らない。

だから、あまり未来を過信せず、悔いのない今を過ごすことが大切だと気がつきました。

大切な人に感謝を伝えられているかな?

やりたいこと、できているかな?

自問自答しながら、これからずっと過ごしていきたいです。

意識が無くなってしまってからでは、遅いから・・・

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